さてここから佳境に入っていきます。
訪問記で、徳之島の土壌は三日月状の石灰岩に囲まれて堆積岩が隆起したものと書きましたが、伊仙町の一部の地域に、花崗岩層があります。
花崗岩は、焼き物(陶器)に使われますから、有名な焼き物の産地は花崗岩が採取できるところでもあるわけですね。
「山は大丈夫ですか?」
と聞かれ
「大丈夫です」(答えるしかない(笑
生活道路からちょっと山の方へ入ると花崗岩地帯があるそうです。
そこを分け入っていくと。
突然、、、、、
焼き物の残骸が足下に出現しました。ビックリです。
気がついたらありました。
周りは森ですから、人が住んでいた感じはありません。
登り窯の状況証拠だそうです。不出来な焼き物を捨てていたのですね。南西諸島一帯に、突如還元焼成陶器が出現するのが11世紀頃だそうで、この産地が全くもって分からなかった。
花崗岩には鉄分が多いので、赤っぽい色をしています。陶器の赤色は鉄分ですが、これを1200℃で焼き締めて、無酸素状態にすると、酸化鉄から酸素が奪われて(還元)、黒い焼き物が出来ます。これが還元焼成だそうです。
ですから、ちょっと硬い。叩くとカンカンと高い音がします。
この焼き物の破片が足下に散らばっています。
突然の出来事に驚きましたが、四本館長が登り窯痕について説明を加えて下さいます。
四本館長が手に持っているのが、釜に焼き物を置くときの土台(名前失念)で、傾斜がついていますからこれで、どれくらいの傾斜の窯か分かるそうです。
これが出れば登り窯があったとわかるそうで、窯自体はつぶれていても十分な証拠になるそうです。
ぱっと見は土塊なので、素人には全く分かりません。この辺はプロの目は違いますね。
足下のかけらでさえも言われて分かるくらいですから。
この窯痕が分かり、南西諸島一帯に散らばる陶器の生産地が徳之島になったという訳です。
これがカムィヤキ陶器窯遺跡で、徳之島が唯一の産地らしいです。驚きですね。
でもこれが誰が作ってどのように流通させていたのかはまだ分かっていません。
琉球王国の設立がその後ですから、琉球の歴史にもおそらく深く関与していることでしょう。
まさに新しい歴史が発見されたのですね。
ここが見つかったのが1983年。見つけたのが、なんと若き日の四本館長です。
そんな人に伊仙町を説明してもらっている私はとっても幸せ者です。
しかし、徳之島でも一部にしかこの土はないのですから、どうやって探し出したのでしょうか。
ほんと不思議なことばかりです。
さあ、四本館長が一番最初に見つけたカムィヤキ跡に行きましょう。
その前にちょっと寄り道。
カムィヤキという言葉から分かるように、甕焼(かめやき)という言葉の名残なんでしょうね。この地区の字だそうです。ここにもヒントがあったのですね。
奥に見えるカムィヤキ遺跡の手前を右折します。
そこには洞窟が広がっていました。
花崗岩の上にサンゴなどの死骸である石灰岩が滞積しています。山からの水は、花崗岩層の表面を流れますが、石灰岩は穴ぼこだらけなので、石灰岩層に出会うと水はすぐ地下に潜ってしまいます。
この花崗岩と石灰岩が出会ったところに水脈が出来ます。
上の写真は、洞窟の入り口ですが、下が花崗岩層、上が石灰岩層です。はっきりと分かれていますね。色も黒と白で分かりやすいです。
奥はこんな風に広がっています。ここも縄文時代の遺跡です。
住みたくなる理由がわかります。
水はある、雨風もしのげる。海にも近い。
ここからも土器が出ます。
途中車を止めて松の幹の観察です。
徳之島の山中にも太平洋戦争時代の塹壕があちこち巡らされています。
終戦が近づき、物資の不足に困り、松ヤニを集めることになったそうです。
その痕がこの幹にあります。
樹皮を削って、幹に傷をつけて松ヤニを集めます。こうして集められた松ヤニはエネルギーとして使われたそうです。もちろん戦争で。
70年ほど前の痕跡がこの様に残るのですね。この辺の松という松にはすべて幹にこの様なキズがありました。
洞窟から数百m移動すると、ため池が出てきます。花崗岩の終わりのところで水をせき止めることができます。
なんとカムィヤキの登り窯痕はここを造成するときにたまたま見つかったのです。
若い時分の四本館長が、お昼前に工事現場を覗いたところ、なんと窯痕が!
斜面を削ったときに登り窯が露出したのですね。工事の人はそんなこと分かりませんから、ほったらかしです。
若き四本青年は、腰を抜かさんばかりに驚き、上司に報告に行きました。大発見です。
四本館長は、「これを発見できただけで幸せ。残りの人生はおまけ」だそうです(笑
これがため池の反対斜面にある窯痕です。
訪問記で、徳之島の土壌は三日月状の石灰岩に囲まれて堆積岩が隆起したものと書きましたが、伊仙町の一部の地域に、花崗岩層があります。
花崗岩は、焼き物(陶器)に使われますから、有名な焼き物の産地は花崗岩が採取できるところでもあるわけですね。
「山は大丈夫ですか?」
と聞かれ
「大丈夫です」(答えるしかない(笑
生活道路からちょっと山の方へ入ると花崗岩地帯があるそうです。
そこを分け入っていくと。
突然、、、、、
焼き物の残骸が足下に出現しました。ビックリです。
気がついたらありました。
周りは森ですから、人が住んでいた感じはありません。
登り窯の状況証拠だそうです。不出来な焼き物を捨てていたのですね。南西諸島一帯に、突如還元焼成陶器が出現するのが11世紀頃だそうで、この産地が全くもって分からなかった。
花崗岩には鉄分が多いので、赤っぽい色をしています。陶器の赤色は鉄分ですが、これを1200℃で焼き締めて、無酸素状態にすると、酸化鉄から酸素が奪われて(還元)、黒い焼き物が出来ます。これが還元焼成だそうです。
ですから、ちょっと硬い。叩くとカンカンと高い音がします。
この焼き物の破片が足下に散らばっています。
突然の出来事に驚きましたが、四本館長が登り窯痕について説明を加えて下さいます。
四本館長が手に持っているのが、釜に焼き物を置くときの土台(名前失念)で、傾斜がついていますからこれで、どれくらいの傾斜の窯か分かるそうです。
これが出れば登り窯があったとわかるそうで、窯自体はつぶれていても十分な証拠になるそうです。
ぱっと見は土塊なので、素人には全く分かりません。この辺はプロの目は違いますね。
足下のかけらでさえも言われて分かるくらいですから。
この窯痕が分かり、南西諸島一帯に散らばる陶器の生産地が徳之島になったという訳です。
これがカムィヤキ陶器窯遺跡で、徳之島が唯一の産地らしいです。驚きですね。
でもこれが誰が作ってどのように流通させていたのかはまだ分かっていません。
琉球王国の設立がその後ですから、琉球の歴史にもおそらく深く関与していることでしょう。
まさに新しい歴史が発見されたのですね。
ここが見つかったのが1983年。見つけたのが、なんと若き日の四本館長です。
そんな人に伊仙町を説明してもらっている私はとっても幸せ者です。
しかし、徳之島でも一部にしかこの土はないのですから、どうやって探し出したのでしょうか。
ほんと不思議なことばかりです。
さあ、四本館長が一番最初に見つけたカムィヤキ跡に行きましょう。
その前にちょっと寄り道。
カムィヤキという言葉から分かるように、甕焼(かめやき)という言葉の名残なんでしょうね。この地区の字だそうです。ここにもヒントがあったのですね。
奥に見えるカムィヤキ遺跡の手前を右折します。
そこには洞窟が広がっていました。
花崗岩の上にサンゴなどの死骸である石灰岩が滞積しています。山からの水は、花崗岩層の表面を流れますが、石灰岩は穴ぼこだらけなので、石灰岩層に出会うと水はすぐ地下に潜ってしまいます。
この花崗岩と石灰岩が出会ったところに水脈が出来ます。
上の写真は、洞窟の入り口ですが、下が花崗岩層、上が石灰岩層です。はっきりと分かれていますね。色も黒と白で分かりやすいです。
奥はこんな風に広がっています。ここも縄文時代の遺跡です。
住みたくなる理由がわかります。
水はある、雨風もしのげる。海にも近い。
ここからも土器が出ます。
途中車を止めて松の幹の観察です。
徳之島の山中にも太平洋戦争時代の塹壕があちこち巡らされています。
終戦が近づき、物資の不足に困り、松ヤニを集めることになったそうです。
その痕がこの幹にあります。
樹皮を削って、幹に傷をつけて松ヤニを集めます。こうして集められた松ヤニはエネルギーとして使われたそうです。もちろん戦争で。
70年ほど前の痕跡がこの様に残るのですね。この辺の松という松にはすべて幹にこの様なキズがありました。
洞窟から数百m移動すると、ため池が出てきます。花崗岩の終わりのところで水をせき止めることができます。
なんとカムィヤキの登り窯痕はここを造成するときにたまたま見つかったのです。
若い時分の四本館長が、お昼前に工事現場を覗いたところ、なんと窯痕が!
斜面を削ったときに登り窯が露出したのですね。工事の人はそんなこと分かりませんから、ほったらかしです。
若き四本青年は、腰を抜かさんばかりに驚き、上司に報告に行きました。大発見です。
四本館長は、「これを発見できただけで幸せ。残りの人生はおまけ」だそうです(笑
これがため池の反対斜面にある窯痕です。